Layer:02 GIRLS ②REASON FOR EXISTENCE Ⅱ(補足)

注:今回の記事はネタバレを含むので、あらかじめご了承ください

 

前の記事でも紹介したように、『lain』作中では、存在は意識=認識の接続によって定義される。このことは、信仰という形で他者から認識される限り神はその存在を認められる、ということをも暗に示唆している。サイバーパンク的な想像力が支配しているように見える(ある意味唯物的な)『lain』の基盤となる価値観は、意外にも観念的なのである。尤も、リアルの極限はフィクションである、というのはよく聞く話だとも思うが。

あらゆる現象は両義的である。その事実を顕在化させている『lain』は(リアルワールドとワイヤードとが共存している、という点で)一見シュールレアリズム的だが、実際にはこれ以上ないと言っていいほどリアルな作品であるとも言えよう。

Layer:02 GIRLS ①REASON FOR EXISTENCE

 

さて本題に入ろう。

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今回のテーマとして外せないものは、まずこれだと思う。1話のテーマとほぼ同じだが、この命題は『lain』全体を貫くメインテーゼなので、注意して見ていきたい。
wikipediaのページ『serial experiments lain』のあらすじ紹介にはこういう文言がある。
存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな繋がれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Serial_experiments_lain

これは、他者に認識されていない存在、すなわち繋がっていない存在は存在とは認められない、ということである。この意見は一概に正しいとは言い切れないかもしれないが、『lain』ではこれを前提として話が進められる。したがって上の命題は、単なるコミュニケーションに関するものであるだけでなく、主人公の玲音が抱える「私とは誰か」という実存的な悩みの根幹にある価値観であると考えられる。

 

Layer:02 GIRLS ⓪ 『lain』を鑑賞する上で留意すべきこと

2話に関する話を始める前に、1話で指摘できなかったことをここで言っておきたい。
1話での玲音と自殺した少女との邂逅は、あくまでも玲音の主観世界の中で起こったことである。そしてここから先でも、『lain』で描かれることは、玲音の主観の影響を受ける。否、それは玲音の主観そのものであると言ってもいい。私たち視聴者はこのことに自覚的であったほうがいいと思う。
作品を鑑賞する姿勢として、まずその主人公と自分との同一化を図って、その人に感情移入してみるのはいいことであるに違いない。だがそれで終わってしまっては、視聴者とその作品との関わり合いは、素朴すぎる感情によるものでしかなくなってしまう。
その作品を本当の意味で「鑑賞する」、すなわち「批判的に読む」ためには、そこから一歩引いて、作品の背後には何があるかということを考えなくてはならない。
この場合の「背後にあるもの」は、「他人から見た玲音の姿」ということになろうかと思う。殊『lain』の視聴者は、作品が徹底して主人公の主観を描写している分、より一層そのことに注意しないといけないように思える。

Layer:01 WEIRD ②『lain』における光と影の描写

1話に限らず、『lain』の中ではしばしば光と影の対照をはっきりさせたシーンが見受けられる。

1話の中では、例えばこれ。

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光の部分が白く映えているのに対して、影の部分からは何やら不穏な空気が感じられる。この点については、『lain』のシナリオを担当された小中千昭氏のブログ「welcome back to weird」で言及されていることを参考にした。もし気になれば、参照していただきたい。リンクは

https://yamaki-nyx.hatenablog.com/entry/2018/05/20/214103

 

このような『lain』における光と影の描写について、私は、光の部分がリアルワールドを、影の部分がワイヤードをそれぞれ象徴していると考えている。

 

まず、この描写が意図的なものであることは上の画像からもお分かりになると思う。ただの風景として描くなら、こんな面倒なことはしない。

ではなぜこの影がワイヤードの象徴と考えられるのか。

このシーンを見て欲しい。

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分かりづらいが、画面真ん中のやや左寄りに立っているのが、本作の主人公の玲音である。

このシーンは、冒頭で自殺したあの少女が、玲音の主観世界に現れて、玲音に対してワイヤードに早く来るように誘った直後、その少女が消えて玲音が一人残る、という場面である。

くどいようだが、少女はすでにリアルワールドにはいない。であれば、その少女と交流ができるのは、ワイヤード上においてのみである。つまり、ここに描写された玲音の主観世界は、すなわちワイヤードであると考えられる。そして玲音がそのシーンで立っているのは、異様に拡大している影の上である。とすると、「ワイヤード=今玲音がいる場所=影」という風に解釈できるのではないかと思う。

そう考えると、この影に映った無数の白い点は、ワイヤード(現実の世界で言えばワールドワイドウェブに近い)上で繋げられた端末の集まりを示唆しているように思える。

このように、『lain』ではリアルワールドとワイヤードとの対照を、背景のコントラストを利用して表現していると思われる。話の推移を、影の描かれ方の変化と対応させてみても面白いかもしれない。

Layer:01 WEIRD ① CONNECTION,COMMUNICATION

・「つながる」

 物語の冒頭、一人の女の子がビルの屋上から飛び降り自殺する。

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この子。

彼女は死の間際、こう呟く。

「わたしは、こんなところにいなくてもいいの」

「こんなところにいたら、いつまでもつながることなんて-」

 

そんな彼女と同じ中学校に通う、主人公岩倉玲音の元に、死んだはずの彼女からのメールが届く。彼女は玲音の友人でもあったのだ。

彼女は言う。

「はやくこっちへ来てー」

ここで言う「こっち」とは、作中における架空のネット空間、WEIRDのことを指す。『lain』の作品世界は、放映当時(1998年)の日本の状況の中で、情報システムだけが異様に発達したものとして描かれている。この架空の日本においては、人々は皆「NAVI」という携帯端末(今で言うところのスマホタブレットを機能的に合わせたようなもの)で情報をやりとりしている。先のメールも、この端末によって受信されていた。

彼女のメール中にはこういう文面があった。

「わたしはただ肉体を捨てただけ」

「わたしはこうしてまだ生きている」

こっち、すなわちWEIRDでは、彼女は生きている。彼女に会いたい。玲音はそう考え、WEIRD上でのより自在な動作を可能にするため新型の「NAVI」が欲しいと父親にせがむ。

 その二人の会話の中で父はこう玲音に伝える。

「人はみんな繋がって生きている」

lain』作中では、現実世界のことを「リアルワールド」と呼び、ネット空間の世界のことを「ワイヤード」と呼ぶ。リアルワールドでは、対人コミュニケーションには物理的、地理的な制約が存在する。しかしワイヤードでは(ここでは、ワイヤードがある『lain』の世界では現在よりもさらに情報テクノロジーが進歩していると考えてほしい)それらの困難はほぼ完全に乗り越えられ、データ化された全ての人間と交流することができる。それはつまり、過去の人間、さらには未来の人間との同時的な意思疎通の手段が存在するという可能性をも示唆している。実際、そうしたことがなされている場面は『lain』の中で散見される。

ワイヤードにおいては、どんな人でも「つながる」ことができる。そこに肉体の有無は関係ない。むしろそれはより広域的なコミュニケーションを阻害してしまう。ならば肉体など要らない。冒頭の女の子は、自身の死を以って、そうしたある種サイバーパンク的な主張を視聴者に対して静かに行った。そしてこのテーゼは、この後の作品世界全体を覆い尽くすようになるが、それについてはまた後で。

はじめに serial experiments lainについて

 

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 serial experiments lain。このアニメ、およびゲームについて知っているという人はかなり限られているだろう。(上の写真はアニメ版のDVDのパッケージ)実際、必ずしも佳作とは言い難い面もあり、万人に薦められる作品ではないのは確かである。

 しかし、私は、

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この絵(プレイステーション版『serial experiments lain』より、 1998 安部吉俊)に衝撃を受け、そしてアニメとゲームの『lain』に感銘を受け、情報科学の道を進むことを考えるようになった。それくらいの破壊力は持っている作品であるということは保証できる。

今年(2018年)はアニメ『lain』放映20周年ということで、私も3年振りにアニメ版を見直してみた。多少知識を積んだ分、昔より楽しめたと感じている。そこで、このブログではアニメ全13話それぞれについての私の所感をゆっくりと述べていこうと思う。といっても私は専門家ではないので、あまり詳しいことは書けない。しかしそれでも、読者のみなさんの何かの参考になれば幸いである。

 

「ラリっている」

私という感覚ーある意味での「意識」ーは幻覚のようなものなのではないか。幼少期に言葉という劇薬を大量に服用することによって生じる、かなり多くの人が罹患している中毒症状なのではないか。そんなことを思う日がある。