Layer… 『lain』のメインテーゼ

私は、『lain』はゲーム版、アニメ版ともにそのラストシーンで、今まで自明にしてきた存在の定義「存在は認識=意識の接続によって定義される」を完全に否定していると考えている。

ゲーム版のラストで玲音は自殺する。有限な肉体から解放されて本当の意味でこの世界に遍在する(=「つながる」)ために。

しかしこの話には無理がある。玲音が死んだところで、玲音の存在領域は玲音を知る人の範囲に限定されている。ネットワークに玲音の情報が拡散していくとしても、ワイヤード世界が日々拡大していく以上必ず玲音が存在し得ない領域が出てきてしまう。仮に玲音がネットワーク全てに存在するようになったとしても、それは一時的なものに過ぎない。果たしてそれは本当に遍在と呼べるだろうか?

 

アニメ版のラストでは、玲音は自身の肉体の消去した上で、自身に関する記憶(記録)を全て抹消し、実体のない集合的無意識となる。(これが玲音の元々の姿だとする考えもある)認識による「つながり」を極限まで求めた玲音が行き着いた先は、誰にも認識されない領域だった。つまり、「遍在は不在と同じである」という逆説に至ってしまったのである。

 

このように、かの存在に関するテーゼを極限まで演繹した結果、それは理論的に破綻した。これが意図的なものであるとすれば、このラストに至るまでの過程こそが、「serial experiments lain(=玲音に関する一連の実験)」なのではないか。もっと言えば、その「実験」からわかることは、「存在の意味や価値はそれに接続される対象の質や量に依存するものではない」ということなのではないか。私はそのように考えている。

では存在を定義づけるものは何なのか。私たち一人一人が考えるべきことはこのことに帰着するのではなかろうか。次の記事ではそれについて触れることにする。