私とRicLylic
私は、私自身のことは書けない。
私が書けるのは、言葉の世界から立ち上がった「私に似たもの」についてのことだけ。
私たちはいつも、多層的な現実の層の間を往還しながら生活している。SNS空間、職場や学校、あるいは家庭とか、そういういろんな世界の中で、その場にふさわしい行動を選択しながら、私たちは生きている。
言語の空間もそのうちのひとつ。そこには、「その場にふさわしい振る舞いをする」私がいる。でもその私は、今こうしてブログを書いている私とは異なる。簡単に言えば、「私についての文章を書いている私」と「その文章から浮かび上がる私」は違うっていうこと。後者が、言語の空間にいる私のこと。
では前者は? 冒頭にも書いたように、私にそれは説明できない。厳密な意味での私自身っていうのは、この宇宙に埋め込まれた形でしか存在していないから、その「私」について語ることは、そのままその背後にある宇宙全体のことについて語ることになってしまう。それは無理だ。だから、私に私は語れない。悲しいことだけれど。
ここで私は、後者の私を"RicLylic"と呼んでやりたい。特に意味はない。しかし意味のないことに意味がある。徹底して記号的な名で「彼」のことを呼ぶことで、「彼」は私とは違うということを宣言することができる。「彼」はあくまで、私の部分的な模倣。いや模倣ですらない。言葉でできた「彼」は私の知らないところで勝手に一人歩きする。私と「彼」は、もはや別人。だからこそ私は「彼」のことを語れる。
私はここにはいない。ここにいるのは、あなたの目の前にいるのは、赤の他人のRicLylic。
■
私は立っている。
一本の綱の上に。
依って立つには余りにも細い綱の上に。
その綱の、
右には生が、左には死が見えている。
どちらへ落ちても、その落ちた先で私はまた新しい綱の上に立ち上がる。
立っては落ちて、落ちては立って。
生きているときも死んでいるときも、
延々とそれを繰り返す。
前に進んでいるつもりが、いつの間にやら横へ横へ、下へ下へ。
昔は宇宙が無重力空間だってこと知らなくて、宇宙に放り出されたら永久に落ち続けるって思ってたけど。
案外間違ってなかったのかも。
落ち続けてんだけど、自分ではわかんないんだよね。風景が変わんないから。
普段意識しないから。自分がいつも選択っていう綱の上にいるってことは。
余りにもその綱が細いもんだからさ。気づかないんだよね。その上に立ってるってことは。
けどほんとはそう。みんなそう。男も女も、動物も植物も。
選択はいつも、強制と意志の間にある。私たちは、選ぶことを強いられる。けれどその中で、何かを選ぶこともできる。
その間で私はいつもフラフラしてる。でもそれが私。右と左、生と死の境界に接しながら、その間の綱に立っているもの。それこそが私。私は私。誰にもそれは譲れない。
息をするように。
書くことは自分を削ることだと思う。
知識をためることが自分を大きくすることだとすれば、ちょうどその逆の行為。
肥大化した自意識を、一旦バラバラにして紙に無理矢理「押し付けてみる」。
そうやって自分の姿を客体として見ることをしないでいると、今の自分がどういう風であるのか、自分でもわからなくなってしまう。
つまりこの「書く」ということは、<破壊>であると同時に、今の自分を紙の上に打ち立ててみせるという点において<創造>でもあるのだ。
大層なことを言ったように聞こえたかもしれないが、何のことはない。息をするような言葉で、息をするように書けばいい。何のことはない。自分の心がそれを求めたときに、思う存分曝け出せばいい。自分の思う自分自身を。