私とRicLylic

私は、私自身のことは書けない。

私が書けるのは、言葉の世界から立ち上がった「私に似たもの」についてのことだけ。

 

私たちはいつも、多層的な現実の層の間を往還しながら生活している。SNS空間、職場や学校、あるいは家庭とか、そういういろんな世界の中で、その場にふさわしい行動を選択しながら、私たちは生きている。

 

言語の空間もそのうちのひとつ。そこには、「その場にふさわしい振る舞いをする」私がいる。でもその私は、今こうしてブログを書いている私とは異なる。簡単に言えば、「私についての文章を書いている私」と「その文章から浮かび上がる私」は違うっていうこと。後者が、言語の空間にいる私のこと。

 

では前者は? 冒頭にも書いたように、私にそれは説明できない。厳密な意味での私自身っていうのは、この宇宙に埋め込まれた形でしか存在していないから、その「私」について語ることは、そのままその背後にある宇宙全体のことについて語ることになってしまう。それは無理だ。だから、私に私は語れない。悲しいことだけれど。

 

ここで私は、後者の私を"RicLylic"と呼んでやりたい。特に意味はない。しかし意味のないことに意味がある。徹底して記号的な名で「彼」のことを呼ぶことで、「彼」は私とは違うということを宣言することができる。「彼」はあくまで、私の部分的な模倣。いや模倣ですらない。言葉でできた「彼」は私の知らないところで勝手に一人歩きする。私と「彼」は、もはや別人。だからこそ私は「彼」のことを語れる。

 

私はここにはいない。ここにいるのは、あなたの目の前にいるのは、赤の他人のRicLylic。